2019年2月11日№105 ワンセンテンスブログ
徳川家康の言葉です。
慶長八年(1963年)の2月12日は、徳川家康が朝廷より征夷大将軍の宣下を受けた日です。
この言葉は、大願成就の思いが高まっている絶頂期、これまでの艱難辛苦を思い起こしてのことだったのかもしれません。
人の一生は重荷を負いて遠き道をゆくが如し。いそぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば、困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基。いかりは敵とおもへ。勝つことばかりを知りてまくる事をしらざれば、害其の身にいたる。おのれを責めてひとをせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。 慶長八年正月十五日 家康
(「東照宮遺訓」)
人生を「重荷を背負っていく遠き道」と言ったのは言い得て妙、まったくその通りだと思います。
人生における荷物というのは「役割」ということではないでしょうか。
ひとは一生の中で、家族の中では夫、妻であり、子供であり、父、母であり、兄弟姉妹であったり、家族という関係性の中で「役割」を担うことになります。
学校では生徒・学生としての「役割」、社会人としては仕事上の「役割」、上司・部下・同僚、職務責任者、その他にも誰かの親友であり、敵であり、誰かの恋人であるわけです。
「役割」というのは人間どうしの関係性です。
アドラーが人間の悩みはすべて対人関係の悩みである」と言ったように、ひとは様々な「役割」を同時に担いながら人生を歩いていくのです。
「役割」を果たすには一朝一夕にはうまくいきません。「いそぐべからず」ゆっくり進んで行きましょう。
「不自由を常と思えば不足なし」も含蓄があります。
思い通りにいかなければ腹も立ちますし、不安にもなり、心穏やかにはいられません。
常に思い通りにいくとは限らないし、むしろ思い通りにいくことの方が稀だと思えば、いつも心穏やかにいられるということです。
「困窮したる時を思ひ出すべし」とありますが、昔との比較、誰かと比べることで、自分に「堪忍」を押し付けることはあまり賛成できません。
無理をして我慢し過ぎるのはどこかで破綻あり、良くないように思われます。
「不自由を常」と考える「心の在り様」は素晴らしいと思いました。
不自由の原因を自分の外にあるものと考えるのではなく、自分の内にあるものとして考え、自分を変えることで不自由を消し去っていく「心の在り様」です。
徳川家康は当時の権力者で、何でも思いのままにできる立場であったはずですが、そこに至るまでの数多い不自由な経験がそのような「心の在り様」を身に着けさせたのでしょう。
「怒りは敵と思え」とは思いますが、実践できるまでの境地にたどり着くにはどれほどの内省が必要なのでしょうか。
「おのれを責めてひとをせむるな」ここにもうまくいかなかった時に他者を責めて他者に変わることを強いるのではなく、内省によって自分を変えることでの解決を勧めています。
しかし、わたしの内省力ではまだまだ難しいように感じられます。
ワンセンテンスブログで内省力を磨くことができればいいなぁと思います。
「一日一文 英智の言葉」木田元編 岩波文庫 からの刺激でした。