№0279 あるコミュニティのSNSの記事の中で「厨二病」という言葉に出会いました。
自分の中を検索しても、まったく引っかかってきません。
初めて聞く言葉でした。
厨から連想するもの
連想するもの、まず「厨」という文字。
厨房という言葉から、台所を思い浮かべました。
そもそも「厨」という言葉の意味は台所、調理する場所という意味です。(辞書より)
これは正しい連想でした。
「厨」という語感は、土間、すりガラスの窓から光が差している中でうす暗い空間佇む竈にお釜、竹筒、薪、ハンドルがプラス型の古ぼけた水道に石のシンク。頭の中のイメージです。
季節は夏。蝉が鳴いています。場所は田舎、台所の出口は裏山の森に続いています。
これは、私の母の生まれ故郷。兵庫県朝来市の農家の思い出、子供の頃の心象風景です。
厨二病を調べてみると…
ネットで「厨二病」について調べてみました。
心象風景が吹っ飛び、ネットスラングだということが分かりました。
幼稚で自己中心的で迷惑な奴ということで「自己中」の「中」。
中学生のような奴だということから「中坊」(中学生坊主)。
「中坊」の誤変換で「厨坊」となり、迷惑な奴のことを○○厨と呼ぶになったようです。
そもそも「中坊」にはお寺などで雑務にあたった僧という意味もありました。
蔑称ではないかもしれませんが、比較的身分の低い僧を指しています。
さて、「厨二病」です。
大人なのに青春気分が抜けず、中学二年生「中二」のように背伸びをする人のことだそうです。
やたら恰好をつけたがる人。
青臭く理想を語る人。
大風呂敷を広げるばかりで行動が伴わない人。
こんな人を揶揄する言葉として使われているようです。
中学一年生でも三年生でもなく、二年生とは絶妙なポジション取りがされているなぁと感心しました。
私と厨二病について
私は59歳になりました。
誰かと話をしている時、自分の将来の理想、これからやりたいことに話が及ぶと長く滔々と語る傾向があるようです。また、これまでの実績や経験を誇りたいということから自慢話が長くなることもあります。
周囲には「厨二病」として迷惑をかけていることもあるのではないかと思います。
還暦を迎える年ごろでは、定年退職というキャリアとしての節目とも合わさって、将来に向けての期待を「第二の人生」「第二の青春」という言葉で表現することがあります。
人生の節目に際して、人生をやり直す意味で気持ちが高揚していることから多少は大目にみていただければと思います。
何歳になっても、理想というか、”ありたい姿” を語ることは大切なことだと思っています。
「青臭い」と一蹴されてしまうことには抵抗を感じます。
人生100年時代と言われるようになりました。
またまだ生き続けるわけですから、活動の源というのか原動力を何か持たないと心身が持ちません。
“ありたい姿”を持って生きることは楽しいことです。
中高齢者の「青臭い」大いに結構じゃないですか。
行動が伴わないと意味がないということなのでしょうが、
理想そのものがないと人生を徘徊しているだけになってしまいます。(個人の感想です)
徘徊大いに結構、とおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。
でも、私は「青臭い」がモノゴトの始まりだと思っています。
最後に
「厨二病」という言葉から、自分の中の記憶、感覚から何が飛び出すか、
静かに物思いにふけった結果でした。
厨房からの子供の頃の心象風景が出てきたことには驚きました。
田舎の台所の風景は私にとっての大切な思い出です。
田舎のゆったりとした時間、だれもいない薄暗い静寂な空間。
こんな空間が落ち着く自分を発見しました。
「厨二」と言う言葉での検索には直接の引っかかりはありませんでした。
でも、「青臭いこと」を強く思う青春時代に再突入するのも悪くないという感覚になったということ。
むしろ大切なことだと思う自分を発見することができました。
「自分の中を検索する」という表現がしっくりきました。
普段論理的に考えようとしている自分。
そんな自分が感性に心を遊ばせることの楽しさに気づいた感じです。
59年生きてきた自分の中にはいろいろな引き出しがあるのでしょう。
たまには偶然の何かで検索してみるのも悪くありませんね。