2019年2月8日№102 ワンセンテンスブログ
いろんなことがあって、いろんな事が重なって、複雑でわけがわからなくなった時、「自分を信じて生きていく」「素直に好きなことを中心に生きていく」それが最も確かなことだと考えていました。
自分に絶対的信頼をおいて生きていくということです。
ふと、「そこまで自分に信頼を寄せていいのか?」と思ってしまうことがあります。
今回のセンテンスブログでは、「われ思う、ゆえにわれあり」のデカルトの言葉を取り上げました。
我々は幼年のとき、自分の理性を全面的に使用することなく、むしろまず感覚的な事物について、さまざまな判断をしていたので、多くの先入見によって真の認識から妨げられている。これらの先入見から解放されるには、そのうちにほんの僅かでも不確かさの疑いがあるような、すべてのことについて、生涯に一度は疑う決意をする以外にないように思われる。
(「人間認識の諸原理について」)『哲学原理』桂寿一訳、岩波文庫
デカルト(1596-1650)はフランスの哲学者。近代哲学の祖と言われています。
全てを疑った後に最終的に疑えないものとして残ったのは「疑っている自分」の存在でした。
何かを疑う時、「疑っている自分の存在」は確かですが、疑う「何か」は検証されるべきものということで、デカルトは、主観(疑っている自分の存在)と客観(疑う対象の何か)を分けて考えるようにしたのです。
今では当たり前のことですが、このことは物体を検証する対象として主観から切り離すことでその後の科学技術の発展に貢献しました。
自分を信じて生きるということを分解すると「信じている自分の存在」は確かですが、「自分が信じているもの」は客観的に検証されるべきものとして疑ってみることが必要かもしれません。
今一度、自分の信念について点検してみたい。
デカルトの言葉を噛みしめているとそんな思いが沸き起こってきました。