「常識」は或る「信仰」である

2019年3月7日 ワンセンテンスブログ№129

三木清の「哲学入門」からの言葉の引用です。

三木清は、常識の中に生きていくことは信仰と同じであると考えたようです。

主催のセミナー・ワークショップのネタ話として使えないかなと考えましたが...。

科学的知識は常に問いに生かされ、したがって探求を本質とするものである。しかるに常識は問いのない然りであり、否定に対立した肯定でなくて単純な肯定である。常識は探究でなく、むしろ或る信仰である。(『哲学入門』三木清、岩波新書)

科学的な知識は、「事実は何なのか?どうなっているのか?」常に「問い」から始まります。仮説があり、その実証があり 、知識として確立されます。

たとえその知識が確立されていたとしても、それを疑い、「問い」が発せられることで、新たな仮説が立てられ、立証されれば、新たな知識として加えられたり、場合によっては書き換えられるものです。

つまり、科学的知識の本質は、「探求」にあります。

常に「探求」が加え続けられることにあると三木清は言っています。

だから科学は常に進歩し続けると言われるのでしょう。

一方、「常識」には「問い」はなく単純に肯定されるべきものとしてあります。

そこには仮説も実証もありません。 そこにあるのは、疑いのない肯定だけです。

三木清は「信仰である」と言い切っています。

多くの科学的知識は実証されて「常識」となっています。

しかし、「常識」と呼ばれるようになった瞬間から、探求が止まり、固定概念化する懸念が生じます。

そうすると進歩はなく、むしろ進歩を阻害する要因になりかねません。

三木清は、「常識」の無批判的な受け入れに警鐘を鳴らしているのだと思います。

私たちの身の回りにある「常識」なるものの中に実は「思い込み」があって、私たちの成長や可能性を妨げているものがあるかもしれません。

「なぜ?」「なに?」を大切にしたいと思いました。

「ぼ~と生きてんじゃねぇよ!!」と言われないように。(「NHKのチコちゃんに叱らる 」より)

NHK「チコちゃんに叱られる」より

「変革・革新」についてのセミナー・ワークショップでの話ネタとして使えないかなと考えました。

企業では、「常識を疑え」を合言葉に商品開発や業務革新に取り組もうとしています。
今までのやり方を変えようと、様々なスローガンが掲げられています。

製造業の改善活動では「なぜ、なぜ、なぜ...」となぜを5回繰り返すように指導しているところも多いかと思います。

しかし、私たちはなかなかこれまでのやり方を捨てられないものです。。

企業内研修の場でも変革・革新のためにさまざまな教育、仕掛けをするのですが、日常に深く根ざしている常識を疑うことはなかなか定着しません。

三木清の話を研修の場で紹介できればと考えましたが、固すぎて誰も聞いてもらえないかもしれません。

なお、三木清(1897 – 1945)は兵庫県生まれの哲学者。このブログでも何度か取り上げた「人生論ノート」の著者です。

この記事を書いた人

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西口満

「気づきによる学び、自ら成長する」を支援し、ひとりひとりのウェルビーイングの実現と生産性の高い職場のチームづくりを行い、企業や社会の発展に貢献する

ビジネスリーダー育成コーチ、
人事戦略のコンサルティングをしています。

プロフェッショナルとして「人の成長」に関わり続けることをライフワークとし、少しでも誰かの成長のお役に立てれば幸いです。

ブログでは、そんな私が学んだこと、気づいたこと、感じたことを発信し、誰かの、何か、前進のヒントになればと思っています。

これからも情報を発信し続けます。

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