2019年2月25日No.119 今回のワンセンテンスブログは室町時代の僧、浄土真宗の中興の祖、蓮如(1415 – 1499)の”白骨の御文章(ごぶんしょう)”の中の言葉です。
取り上げた言葉から感じたままの「気づき、学び」をブログに書くことにしています。
“白骨”という言葉の響きは不気味で怖いものという印象があるかもしれません。
お坊さんの説教ブログになってしまう可能性大です。
“一生すぎやすし。いまにいたりて、たれか百年の形体をたもつべきや。我やさき、人やさき、けふともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すゑの露よりもしげしといへり。されば、朝には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちにとぢ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそほひをうしないぬるときは、六親眷属あつまりて、なげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。(『蓮如文集』)笠原一男注、岩波文庫”
御文章は蓮如が、布教のために全国の信徒に送った手紙をまとめたもの。御文(おふみ)とも言います。
中でも「白骨の御文章」は浄土真宗のお葬式や法事でも唱えられるもので、よく知られています。
さて、この白骨の御文章の引用から思うことです。
「一生過ぎやすし...(中略)...夕べには白骨となれる身なり」
まずは、人の一生の短さを諭しています。
だから自分の命を大切に生きなければならないということになりますが、ここでは、死ぬことは人によって後先はありますが、誰にも平等に訪れることを言っています。
人と比較して一喜一憂することのばかばかしさ、悲しいことや苦しいことも短い人生の中ではアッと言う間の出来事に過ぎないこと。
宇宙の目線で考えれば、多くのことはなんでもないことに思えてくる。
そんな平穏な気持ちになることを勧めているのではないかと思いました。
「無常の風」
死をあらわす言葉です。
世は”常ならず”ということで、仏教ではよくたとえで使われます。
命を花に例えれば、美しく咲きほこる花も風がサッと吹けば散ってしまうもの。
命をロウソクの灯に例えれば、燃え尽きずとも、ひと吹きの風でフッと消えてしまうもの。
偶然の風で亡くなってしまいますが、人はいつかは死ぬべきものなので、必然の風とも言えます。
その人の人生の内容からすると運命の風と言えるかもしれません。
最後に
運命については、昨日のワンセンテンスブログ№118「三木清の言葉」に書きました。
自分にとって意志ある人生として”面白かった”と言える最後の「無常の風」が吹けばいいなぁと思いました。
やはり、お坊さんの説話っぽくなってしまいました。
「一日一文 英知の言葉」木田元編、岩波文庫別冊の2月25日の一文として紹介されています。
2月25日は、蓮如の誕生日にあたるようです。