№221 日本を代表する哲学者、西田幾多郎(1870-1945)の言葉を取り上げます。参禅経験から「無の境地」を哲学的に理論化し、仏教思想と西洋哲学とを融合しようとしました。
難解な思想のため、私にはまったく理解が及びません。
しかし、哲学の研究者というよりは、自らの思索を重ね、哲学の方法で禅思想を理論化した人、哲学を実践した人ではないかと私は理解しています。
京都東山には「哲学の道」という琵琶湖疎水に沿った小道があります。若王子神社から銀閣寺道までの約2㎞の散策路です。
京都大学にいた西田幾多郎がよく散策に用いて、思索を重ねたことが名前の由来となっています。
今日のワンセンテンス
回顧すれば、私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして座した、その後半は黒板を後にしてたった。黒板に向かって一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである。しかし明日ストーブにくべられる一本の草にも、それ相応の来歴があり、思い出がなければならない。平凡なる私のごときもの六十年の生涯を回顧して、転(うた)たの水の流れと人の行末という如き感慨に堪えない。
『ある教授の退職の辞『西田幾多郎随筆集』上田閑照編、岩波文庫 より
人生は複雑なもの
人生はつらいこと、楽しいこと、様々な出来ごと、必然偶然、複雑なものと捉えていました。
人間関係も難しい。利害・好悪あいまって複雑に絡み合い、絡まった糸を解きほぐすことは至難のワザです。
何かを為さなければならない、何者かでありたい、乗り越えなければならない、そんな思いを持って、もがき苦しむことも多々あります。「何とかする、何とかなる、まだまだ頑張る」と思って前へ進みました。
もちろん苦労ばかりではありません。楽しいこと、嬉しいことも、多くありました。
いろいろな事どもにかき回され、洗濯機の中でグルグルと回されている感があります。
人生は簡単なもの
人生をポイントポイントで、近視眼的に捉えると複雑に見えますが、人生を大きく振り返ると意外と単純です。
学校に通っていたころは多くを机に向かって過ごし、誰のためという訳でもなく専ら学業にいそしむ。
就職してからは家と会社の間を往復する毎日で、大きく意識はしないまでも、自分を含む家族のため、会社のため、専ら仕事にいそしみました。
捨象すると実にシンプルです。
人生にタイトルをつける
自分の人生にタイトルをつけるとするとどうでしょう。
私が考えたのは「自己成長の旅」です。
人生において、何よりも自分を成長させたいという思いが強く、何をするにも根底にはこれがありました。
複雑雑多な人生ですが、タイトルをつけてみると、さらに人生を単純化して捉えることができます。
旅の行きつくところは「死」ということになります。
「人生の目的」については学生時代から様々考えてきました。到達するもの、成し遂げるものが何かあるはずだと。
しかし、「人生の目的」と呼べるものはいまだに見つかっていません。(気づいていないだけかもしれません)
いくつか到達点はありました。
社会的な地位を得た、仕事上の成功を収めた、結婚した、子供が生まれ成長した、人生には節目があり、目標としていたことへの達成はいくつも経験しました。もちろん到達できなかったことも多々あります。
ここ数年来、「人生の目的」はなくていいという考えに変わっています。
代わりに、旅の終わりに自分の人生にきちんと「タイトル」をつけることができればいい、と思うようになりました。
「人生の意味」を問い続けることが大切だということに気づいたのです。
人生に「自己成長の旅」というタイトルをつけてみましたが、まだまだ旅は終わりではありません。
人生のタイトルはまだまだ変わる可能性があります。
旅の同伴者は家族です。家族を一番大切に、家族と一緒に旅を楽しみたいと考えています。
ただ単純に進むしかない
齢(よわい)60年が近づきつつあります。
おそらく、これからも様々な出来事が待ち受けています。複雑さに絡めとられてどうにもならない状況に陥ることもあるでしょう。
しかし、一方に「人生は単純である」という考えを持ち合わせていれば、複雑さに絡み取られることなく、前進していけるように思えます。
西田幾多郎の言葉をきっかけに、人生について振り返る機会を得ました。
旅は続きます。