「最近、自分には無理な気がするんです」
「正直、最近は自信がありません。」
A氏は、1on1の場でそう切り出した。
40代前半のA氏は、中堅メーカーで主任を務めている。これまで堅実な仕事ぶりで評価されてきたが、ここ数か月、大きなトラブルが続いていた。
新規案件では納期調整に失敗し、顧客対応でもクレームが発生。さらに、部下育成もうまくいかず、チーム内の雰囲気も悪化していた。
A氏は言う。
「前は、多少難しい仕事でも何とかやれると思えていました。でも最近は、新しい仕事を振られるたびに、“また失敗するんじゃないか”と思ってしまうんです。」
これは単なる気分の落ち込みではない。
A氏の中では、「自分にはできそうだ」という感覚そのものが揺らぎ始めていたのである。
アルバート・バンデューラは、この感覚を「自己効力(Self-Efficacy)」と呼んだ。
自己効力とは、「自分はその行動を遂行できそうだ」という信念である。
重要なのは、自己効力は単なる性格や楽観性ではないという点だ。
人は、客観的な能力だけで行動しているわけではない。
「自分にもできそうだ」という見通しによって、
挑戦するか、回避するか、どこまで粘るか、失敗から立ち直れるか、が大きく左右される。
つまり、自己効力は、行動を支える心理的な基盤なのである。
自己効力は、どのように低下していくのか
A氏の上司は、すぐに励まそうとはしなかった。
「Aさん、最近かなり苦しい状態が続いていましたよね。」
まず行ったのは、問題解決ではなく、A氏の経験を整理することだった。
話を聴いていくと、A氏の中では失敗経験が強く残り、「また失敗するかもしれない」という予期が積み重なっていることが見えてきた。
バンデューラは、自己効力に最も強く影響するのは「成功体験(制御体験)」だと述べている。
実際に、「やれた」「乗り越えられた」という経験が、「自分にはできる」という信念を形成する。
逆に言えば、失敗経験が続くと、自己効力は低下しやすい。
特に、「努力しても結果につながらない」という経験は、人の見通しを大きく揺るがす。
A氏もまさにその状態だった。
上司は、A氏に問いかけた。
「ここ1年くらいで、“うまくいかなかったこと”ばかり思い浮かんでいませんか?」
A氏は少し黙ってから、「……そうかもしれません」と答えた。
すると上司は、過去の成功経験を振り返り始めた。
「でもAさん、以前の大型案件では、かなり難しい調整をまとめていましたよね。」
「後輩指導でも、“話しかけやすい”って評価されていましたよ。」
「トラブル対応も、最後まで投げ出さなかったじゃないですか。」
これは単なる励ましではない。
バンデューラの理論で言えば、成功体験を再構成し、自己効力の根拠を再認識する働きかけである。
キャリアコンサルティングにおける職務棚卸しや経験整理も、本質的には同じ意味を持っている。
単なる経歴確認ではない。
「自分は、何を乗り越えてきたのか」を再発見するプロセスなのである。
「自分にもできるかもしれない」は、他者との関係の中で生まれる
数週間後。
A氏は、別部署の先輩社員と話す機会を持った。
その先輩も、かつて大きな失敗を経験し、一時は管理職を降りたいと思っていたという。
しかし、試行錯誤を重ねながら少しずつ立て直していった経験を語ってくれた。
A氏は、その話を聞いた後、「少し気が楽になりました」と言った。
ここには、バンデューラがいう「代理体験(ロールモデルを通した学習)」が働いている。
人は、自分と似た他者が努力しながら乗り越える姿を見ることで、「自分にもできるかもしれない」という見通しを持ちやすくなる。
重要なのは、“完璧な成功者”ではない。
むしろ、失敗や葛藤を抱えながら前に進んでいる存在の方が、「自分にもできるかもしれない」という感覚につながりやすい。
キャリア支援でも、ロールモデル紹介が有効なのは、単なる成功談を聞くからではない。
「この人も悩みながら進んでいた」と実感できることに意味がある。
さらに、上司はA氏との1on1で、小さな変化を具体的にフィードバックしていった。
「最近、部下への確認の仕方が変わりましたよね。」
「以前より、相談を早めに上げていますよね。」
「対応を抱え込まなくなりましたね。」
ここで重要なのは、抽象的な励ましではなく、具体的な行動事実に基づいている点である。
バンデューラは、他者からの励ましや承認を「社会的説得」として位置づけている。
ただし、根拠のない励ましは弱い。
「大丈夫、君ならできる」
だけでは、本人の実感につながらないことが多い。
むしろ、本人が納得できる具体的な変化や行動を言語化することが、自己効力を支えるのである。
自己効力は、「可能性の見通し」の回復である
ある日の1on1で、A氏はこう語った。
「まだ不安はあります。でも、前みたいに“全部無理だ”という感じではなくなってきました。」
それは、突然自信が回復したというより、「自分にも少しはやれそうだ」という感覚が戻り始めた状態だった。
バンデューラは、自己効力を「自分はその行動を遂行できそうだ」という信念として捉えている。
つまり自己効力とは、単なる楽観的な気分や性格ではない。
「自分には、やれそうだ」という可能性の見通しであり、それが人の挑戦や行動を支えているのである。
そしてバンデューラの自己効力理論では、その「やれそうだ」という感覚は、主に次のような経験によって支えられるとされている。
まず大きいのは、「実際に乗り越えた経験(成功体験・制御体験)」である。
過去に困難を乗り越えた経験は、「自分にはできる」という見通しの土台になる。
次に、「似た立場の人の経験(代理体験)」も大きな影響を与える。
自分と近い立場の人が試行錯誤しながら前に進む姿、つまり「ロールモデル」の存在によって、「自分にもできるかもしれない」という感覚が生まれる。
さらに、「納得感のあるフィードバック(社会的説得)」も重要である。
単なる励ましではなく、具体的な行動や変化に基づいた承認やフィードバックは、自己効力を支える根拠となる。
今回のA氏も、
過去の経験を整理し、
ロールモデルとなる先輩の話を聞き、
上司から具体的なフィードバックを受ける中で、
少しずつ「またやれるかもしれない」という見通しを取り戻していった。
自己効力とは、単なる“自信”ではない。
「自分には、もう一度やれそうだ」と思える可能性の見通しであり、それは経験や他者との関わりの中で、少しずつ回復していくものなのである。
【参考文献】
アルバート・バンデューラ
『激動社会における個人と集団の効力の発揮』
(原題:Self-Efficacy in Changing Societies)
※アルバート・バンデューラ(Albert Bandura,1925–2021)
カナダ出身の心理学者。社会的学習理論および自己効力理論の提唱者として知られ、認知・行動・環境の相互作用を重視する「社会的認知理論」を発展させた。教育、医療、スポーツ、組織開発、キャリア支援など幅広い分野に大きな影響を与えている。